書評『私も「移動する子ども」だった』

『私も「移動する子ども」だった』を読んで

佐藤ブリューゲル敬子(アーヘン工科大学)

10人の若者が,子ども時代を振り返り,今の自分を見つめ,自分を語る素直さと率直さ。自分をありのままに認める,自由で捕われない姿は読む者の心を打つ。

「自分探し」は決して平坦ではなく,母語を封印してしまった方もおられる。しかし,自分の心を封印することはできない。この本の10人の方たちの磨かれた自由な感性と生き方は,逃げ出すことのできない心の内面にある異文化の間を行き来し,葛藤しながらも,たゆまずに対話を続けてきたことから生まれたものだと思う。

双方の間が決して埋まらないのが異文化である。異文化間を頻繁に行き来する人が増え続け,相互理解ということが言われているが,異文化にあるもの同士ができることは,対話しかない。対話以上の方法も,対話以外の方法もない。ただ,対話から,双方の間に何かがつくられていくと私は考えている。譬えて言えば,川を間に挟むAとBが,行き来をするためにお互いに協力しあって,船を渡したり,橋を架けてバスを走らせたり,新しく橋を架け直したりするようなものだと考える。

本に登場する方たちは,自らの内面の対話を続けながら自分の人生をつくっておられる。このことから私たちは,多くのことを学ぶことができるのではないだろうか。

また,一人ひとりが,表現できる自分を持っておられる。言葉ができるから自分が語れるのではなく,「自分探し」の試行錯誤を通して獲得された言葉,教えられた言葉ではなく,自らが欲して探し当てた力強い言葉である。そして,その個性あふれる語りは,インタビューをされた川上先生が相手を受け入れ,認め,共感することによって成立しており,コミュニケーションは相互行為であるということが,明確なメッセージとなって伝わってくる。

母語話者能力に拘らず学習者の目的に添った表現能力を育成するための支援,目の前の相手を受容・理解・共感できる周囲の自由で捕われない精神の必要性。この本で具現されていることは,新しい言語教育を考えるためのモデルでもある,と私は受け止めた。

さらに,この本は,アイデンティティについて,「個人と社会の関係性である」という基本概念に立ち返らせてくれる。それは,とりもなおさず,アイデンティティの形成もまた,個人と周囲の相互行為であるということにほかならず,周囲の理解が求められていることを意味する。

私が住むドイツの文豪ゲーテの言葉に,「真に自由であるということは,認めるということである。」(Die wahre Liberalität ist Anerkennung.)という言葉があり,この考え方は,ヨーロッパ発の複言語主義の言語教育理念であるCEFRにも受け継がれている。

しかし,素晴らしいことに,10人の若者たちは自らの力で自由な行き方を体現し,この本は見事にその姿を受け止め,読者に伝えている。教育者として,謙虚にならざるを得ない。

私自身,「移動する子ども」の母親であり,つい先日,離れた町で大学生活を始める息子を送り出したばかりである。「移動する子ども」として育つ息子の言葉の教育に,息子が生まれた時からこだわり続けたことが一つある。それは,どのような言葉を話すのであれ,周囲の人々と喜怒哀楽を共にできる言葉を身につけてほしいということだった。全くと言っていいほど日本語環境のない町での日本語の習得には不安があったが,私の願いは,どうやら達成できたと思う。10歳を過ぎるまで本の読み聞かせをし,機会は少なくとも,家族や友人知人との肉声の交流が大きな力になった。周囲の方たちのご支援には,感謝の言葉もない。読み聞かせをしながらの「やりとり」,家族や知人との「やりとり」は,母親の私には大切な記憶だが,それよりも,その「やりとり」が今後の息子を支えていってほしいと思っている。

本の中の若者たちのライフストーリーと息子の成長の記憶が重なり,ひとしおの感慨を覚えた。息子の「自分探し」はこれから始まる。

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表紙『私も「移動する子ども」だった』『私も「移動する子ども」だった――異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』

  • 川上郁雄(編,著)
  • 2010年5月10日,くろしお出版より刊 [紹介ページ
  • 定価:1,470円