書評『私も「移動する子ども」だった』

日々言葉を紡ぎながら他人や世界と向き合って生きている全ての人への示唆

尹智鉉(ユン・ジヒョン:早稲田大学日本語教育研究センター)

韓国で外国語高校に通っていた時,私の周りには「移動する子ども」としての経験を持つ友人が非常に多かった。ただ外国語を学ぶことが好きで外国語高校に進学した私と違って,「移動する子ども」だったクラスメートは既に外国語能力や文化的知識の面で圧倒的な存在感を示していた。当時の自分からすれば,まさに憧れの存在であった。

その後,「移動する子ども」に対して少し違う見方をするようになったのは,日本の大学で最初の常勤職に就いてからである。当時,都内のある私立大学で国際教育に関わる仕事をしていたが,多様なバックグラウンドをもつ学生から相談を受けるなかで,多くの「移動する子ども」たちの光と影の部分に触れた。本書を読み進めるうちに,改めて,当時出会っていた「移動する子ども」たちの語りを思い出し,当時の記憶と思いを少し整理することができた。

当時の私は,本書の著者のような洗練された受け止め方もできず,ただ「純ジャパニーズ」「留学生」「帰国子女」「ハーフ/ダブル」といった既成概念の範疇でまとめようとするか,それが困難な場合は究極の体験をもつ一個人として片付けようとする,極めて不器用な思考回路しか備えていなかった。

言うまでもないが,人間の生き方や生き様をいくつかのタイプやカテゴリーに当てはめようとするのは実に傲慢で危ういことなのかもしれない。しかし,本書に述べられている「空間移動」「言語間移動」「言語教育カテゴリー間移動」の概念,さらに「動態性」「主体性」「関係性」という捉え方は,むしろ一人ひとりの語りに対して謙虚に耳を傾けられるように読者を導いてくれている気がした。分からないことへの警戒心や理解できないことへの回避意識に陥ることのないよう,また,違う世界への無知や無理解から脱出できるよう,目のまえに飛び石の橋が現れた気がして,心底ありがたかった。

本書を読み終えて最も印象に残ったのは,「移動する子ども」を,何らかの支援や手助けが必要な不憫な存在としてでも,憧れて羨むべき格別な存在としてでもなく,あくまでも一人ひとりのライフストーリーを熱すぎず,冷ややかすぎない視線で描いている,一貫した著者の姿勢である。

本書に集大成された,著者の淡々とした省察の結果は,「移動する子ども」だけではなく,日々言葉を紡ぎながら他人や世界と向き合って生きている全ての人に多くの示唆を与えている。本書に登場する,かつて「移動する子ども」だった10人は,「移動する子とも」ではなかった人に比べれば,比較的早い年代から,自己や他者,言葉や文化と向き合わされ,アイデンティティーなどをキーワードにもがき苦しんだ時間が長かったのかもしれない。しかしながら,そのような経験から,差異を超えた人間同士のコミュニケーション,異なる文化への接し方,社会的弱者やマイノリティーへの理解,自分のアイデンティティーの確立,自分の未熟さへの自覚,思考を言語として表現する力などといった生涯の財産を得ているのではないだろうか。たとえ,全てが順調で成功的な経験ではなかったとしても,そのような問題意識や自覚もないまま,または,そのような自覚が生まれる機会に遭遇することもなく生きてきた多くの人に比べれば,豊かで実りの多い成長の時間を過ごしてきたのだと思う。

思春期の私が憧れを抱いていたのが「移動する子ども」だった友人たちの外国語能力の高さや異文化に関する知識の多さであったとすれば,本書を読み終えた今,心から羨ましいと思うのは「移動する子ども」だった方々の豊かな経験と学びのほうである。そして,今自分のいる場所で,自分探しや,自分の思考を掘り下げて自分の言葉を紡ぎだす努力を怠ってしまっては実にもったいないことだと,警鐘を鳴らしてくれている気がした。このような新鮮な自覚をもたせてくれた本書に心から感謝したい。

<< 書評の目次< 前の書評 | 次の書評 >

表紙『私も「移動する子ども」だった』『私も「移動する子ども」だった――異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』

  • 川上郁雄(編,著)
  • 2010年5月10日,くろしお出版より刊 [紹介ページ
  • 定価:1,470円