書評:「移動する子ども」という記憶と力――ことばとアイデンティティ

川上郁雄(編),くろしお出版より2013年2月刊

複数言語環境で育つ子どもたちのことばの営みをまるごと捉える視点

松井孝浩(国際交流基金マニラ日本文化センター:セブ駐在)

フィリピン・セブ島で中等教育機関における日本語教育に携わって3年目になる。こちらの生徒たちが学んでいる日本語は,ビサヤ語(主にフィリピン南部で広く使われている言語),フィリピノ語(タガログ語),英語,に続く第4言語になる。そこで4つ目の言語として日本語を学ぶことにはどのような意義があるのかをこちらに赴任して以来考え続けている。

本書では「『移動する子ども』という記憶と力」について「幼少期より複数言語環境で成長したという記憶と力を自分自身の中に持ち続けながら,同時にその記憶と力への意味づけを自分の置かれた社会的な力関係の中で変化させながら,成長し,大人になっていく。」と述べている。しかし,当然ながらこの「記憶」を「力」に変えることに困難を感じている子どもたちも少なくない。

自分の例で言えば,複数言語環境の中で育ち,どの言語(ビサヤ語,フィリピノ語,英語)も中途半端にしかできない自分にコンプレックスを感じている生徒が少なからずいる。このような生徒に対しては,日本語教育に出会うことによって,コンプレックスとしての「記憶」を豊かな言語背景を持つ自分として意味づけ直し,それを「力」に変えていってほしいと願っている。しかし,それをどのように促し,支えていけるかについては悩まされる部分が多い。

子どもたちの言語使用について本書では,これまで成功体験にのみ焦点が当てられがちであった移民研究および移民の子ども研究を批判的に考察している。そして,そこから複数言語環境で育つ子どものアイデンティティとは,言語使用に関する成功体験と不成功体験が複雑に絡み合い複合的に形成されるものであるということが多様な事例を示しつつ精緻に論じられている。

自分に求められていたのはまさにこの視点だと感じた。成功体験に倣うことはもちろん重要であろう。しかし,多くの場合,私がフィールドで目にするのは不成功体験であるような気がする。そして,この不成功体験を乗り越えていくために様々な実践が求められていると言っても過言ではないだろう。従って,不成功体験に目を背けることなく,これに真摯に向き合い,苦しみつつ考える作業こそが今の私にとって必要であることに本書を読むことで気づくことができた。

言い換えれば成功体験という光の部分にのみ注目するだけではなく,不成功体験という影の部分を含んだ子どもたちのことばの営みをありのまま,まるごと捉えていこうと試みることが「記憶」を「力」に変えていくための鍵であると言えるのではないだろうか。このような意味において本書は国内外を問わず日ごろの実践で様々な課題を抱える者にとって示唆に富むものであるに違いない。

「移動する子ども」は,私に,オートポイエーシスの世界を連想させてくれた

金孝卿(国際交流基金シドニー日本文化センター)

本書は,川上郁雄氏が,「幼少期より複数言語環境で成長した子どものことばとアイデンティティをどう捉え,どのように育んでいくかをテーマにした,様々な実践や調査,経験に基づく論考」をまとめたものである。

本書で紹介されている数々の論考は,川上氏が提唱している「移動するこども」という分析概念を軸としている。「移動するこども」とは,「幼少期より空間,複数の言語間,言語学習環境間を行き来しながら,動態的かつ主体的に自分のあり方や生き方を構築し続ける子どもたち」のことである。各章の論考では,「移動する子ども」としての「経験と意識」あるいは「記憶と能力」を分析の対象としており,一人ひとりの青年たちが生の主体として自らのことばとアイデンティティを形成していく様子が描かれている。

第1章で,川上氏は,移民研究と移民の子どもに関する研究をまとめた中で,移動する子どもたちの内面の課題や内的要因についての議論が少ないことを指摘し,「移動する子ども」という分析概念を用いることで,多様なバックグラウンドの子どもたちの主観的な意識を科学することが可能になるとしている。大きく3部に分かれている第2章から第16章では,多様なバックグラウンドの子どもたちの記憶と経験が語りとして記述されている。いずれの論考においても,対象者たちが「移動する子ども」という自らの記憶を語ることによって,「今ありたい自分」を意識し,さらに「なりたい自分」をイメージすることを可能にしているように見える。また,それらの語りには,子どもたちが「主体」として親や支援者との関係の中でいかに居場所や仲間を見つけていくかが描かれている。本書は,私たちが,言語教育者,研究者,親,そして社会の一員として,子どもたちの成長や人生の旅程にどう伴走していけるかを考えるうえで,新たな視点を提示してくれる。