書評『私も「移動する子ども」だった』

アイデンティティとことばの学習――「能力」ではなく「意識」が「その人」を形成する

三輪聖(ドイツ/ハレ・ヴィッテンベルク大学)

かつて「移動する子ども」だった私は今「移動する子ども」の親となって,ドイツで生活をしている。ヨーロッパの教育現場に立つようになり,様々な「移動する子ども」を見ながら彼らの生きてきた背景がいかに多様で,複数の言語の位置づけが異なるものであるか,そして彼らを既存の固定的なカテゴリーにおさめることがいかに意味のないことであるかを目の当たりにしている。

しかし,その多様性というのは,彼らの様々なカテゴリー間の移動の事実であって,移動をしてきた個人の中の声までは見えなかった。複言語・複文化主義のヨーロッパで生きている「移動する子どもたち」は,果たしてどのように自己を形成しているのか,そして,どのように複数の言語を個人の中で位置づけ,使い分けているのかということに関しては個人の中にあるものとしてそれ以上は見ることができなかった。本書では,そういった「移動する子ども」たちの心の軌跡が赤裸々に語られている。衝撃だった。物理的な移動の軌跡だけでなく,移動した人間が様々な事にどのように向き合ってきたかという10人の心の軌跡が綴られているのだ。このような貴重なインタビューが実現され,まとめられた本書は実に示唆的である。

10人の方々の第二言語としての日本語習得過程も非常に興味深いが,日本国外で生活をする私は,やはり彼らがいわゆる「親の言語」とどのように向き合ってきたかという点に着目した。ここには様々な「葛藤」と「決断」があった。彼らのそういった経験談から教えられる事の中で特に印象的だったのは,アイデンティティと言語能力の関係である。つまり,言語能力が低いことがアイデンティティを混乱させるとは限らないということである。大切なのは「能力」ではなく,「意識」なのである。彼らは,社会で生きていく中で,他者からの評価と自己の評価とをすりあわせていくかのように,自己実現するべく自分の中で複数の言語を流動的に位置づけていっているのである。そういった「意識」が「その人」を形成していくのであろう。このように「移動」の中で自己対峙を続けてきた10人の方々は,物事の多様性・複雑性を認め,その上で自分の存在を位置づけ,自律して生きていくことができるようになっていると感じられた。

私も私の子どもも「移動」の中で生きているが,個人は,他者との関係性の中から形成されていくものであることを痛感している。現地の幼稚園に通う息子が既に複数の言語を自分なりに使い分け,自分とその言語との関係性は何かについて考えているようだ。そんな子どもの話を聞いて,私も私自身について考え直してしまう。私自身も「移動中」なのである。今後,息子も色々な葛藤や混乱を経験していくのであろうが,それは自身を形成していくためのプロセスなのだと信じて強く生きていって欲しい。そういう事を考えさせられる本書は,「移動する子ども」を育てている人,教育現場で支援する人,そして今まさにそういった葛藤の中を生きている人に是非読んでもらいたい一冊である。

メールマガジン『ルビュ言語文化教育』328号(2010年5月28日発行)「この新著・新刊がおもしろい!」に掲載。

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表紙『私も「移動する子ども」だった』『私も「移動する子ども」だった――異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』

  • 川上郁雄(編,著)
  • 2010年5月10日,くろしお出版より刊 [紹介ページ
  • 定価:1,470円