2001年4月入学(1期生)
湧田美穂
修士論文:「い形容詞+ナイ」の表現意図と韻律的特徴――母語話者および北京語・上海語話者を対象とした録音実験から
否定辞「ナイ」で終わる発話(以下「ナイ文」)は,同じ言語形式のものでも,話者の表現意図によって様々な音声的実現をする。母語話者同士の会話において,韻律が聞き手への意図伝達において重要な要素となるが,日本語学習者にとって,表現意図によって音声的実現が全く異なる「ナイ文」は,その用法の区別が,知覚・生成どちらの側面から見ても非常に紛らわしく,誤解を招きやすい表現である。表現意図がどのような意図とも解釈できるような状況においては,学習者が話し手である場合にも聞き手である場合にも,誤解や話者が意図しない印象が伝達されてしまう事態を引き起こす可能性が考えられる。 以上の観点から,表現意図と韻律的特徴との関係を明らかにしていくことを考えた。そこで本研究では対象を「い形容詞+ナイ」に絞り,日本語母語話者を対象に録音実験を行い,聴覚印象および音響データによる分析・考察を行うことにした。また日本語教育への応用を考えるために,第二言語習得の観点からの考察も必要であると考え,学習者を対象とした録音実験も同様に行い,中間言語研究の観点から分析・考察を行うことにした。本研究の対象者は,中国語(北京語・上海語)を母語とする学習者に限定した。 中国語話者を対象とした研究報告の中でイントネーションをはじめとする韻律に関する問題としては,声調の干渉から日本語の自然なアクセントやイントネーションの習得が困難であり,時としては日本人から誤解されたり,「きつい」印象を与えてしまうなどといった問題が指摘されている。(陳1992)これらの問題は,学習者本人が気づかないうちに起こっている場合も多く,韻律と表現意図との関係について教育に導入することは,上記のようなコミュニケーション上の問題を極力回避するために教育現場からできる支援のひとつではないかと考える。
日本語母語話者を対象とした実験の結果,アクセントの側面からは,「アマクナイ」・「オモシロクナイ」の語幹のアクセントにみられるゆれが確認された。「アマクナイ」のゆれに関してはまだ東京語のアクセント規範内のゆれとして完全に認められていないが,語幹アクセントのゆれとして,平板型形容詞のアクセントが起伏型形容詞のアクセントパタンに同化している傾向があるという社会言語学的観点からの指摘(井上1997)が確認されたことになる。また,「同意求め」の表現において「ナイ」のアクセント核が消滅している発話が圧倒的に多いことが分かった。イントネーションの側面からは,この実験では,特に「同意求め」表現において,語幹および「ナイ」のアクセント核を破壊して上から被さる平らな上昇イントネーションの使用が20代の調査協力者の間では主流であり,その上昇におけるピッチ幅も狭く,これまで日本語疑問文の韻律的特徴として言われてきた「最終拍一拍での1オクターブに近い上昇」(鮎澤1993)を見せる発話は非常に少ないという実態が明らかとなった。持続時間の側面からは,当初「同意求め」の発話は,「否定表明」の発話と比較して発話速度が遅いことや,「ナイ」の持続時間の全体長に占める割合が大きいことが結果として表れるのではないかと予測したが,分析の結果,母語話者の発話において「否定表明」と「同意求め」の音声的実現の違いに持続時間の要素は大きく関与しないことが明らかとなった。この章で明らかとなった母語話者の音声資料は中国語話者と比較考察をするためのベースラインデータとした。
次に中国語(北京語・上海語)を母語とする学習者を対象として母語話者と同様の録音実験および考察を行った結果,これまでの先行研究に報告されている中間言語の特徴が確認された。北京語・上海語を母語に持つ学習者に共通して見られる,声調や疑問文イントネーションの影響が見られる母語干渉からの特徴だけでなく,形容詞の語幹アクセントに関する過剰一般化や,教室活動の影響と見られる特徴も見られた。また,個々の学習者独自の特徴は同じ母語背景の学習者の中でも様々であり,語幹のアクセントに極端なピッチ差が見られる学習者がいる一方で,Backman(1977)でも指摘されているようなピッチの極端な高低を避けて発話する者も見られた。ある学習者においては,戸田(1998)が促音の習得において示唆した「過剰般化→オーバーシューティング→自己修正」という習得のプロセスが,上昇イントネーションの習得過程でも見られることも示唆された。また,表現意図による音声的実現が発話ごとに異なり,韻律規範が安定していない学習者も見られた。