ミネソタ州マカレスター大学 ラボインストラクター報告書
2010-02-12
待遇コミュニケーション研究室,博士後期課程13期の田所希佳子です。2008年3月に日研の修士課程を修了し,4月から8月まで早稲田大学日本語教育センターで契約講師(現インストラクター非常勤)として働いた後,マカレスター大学で2009年5月まで約10ヶ月間ラボインストラクターをしました。
1.ミネソタ州マカレスター大学とは
1.1.ミネソタ州について
ミネソタはアメリカの中西部に位置し,「10,000 lakes」という愛称で知られている通り,湖の多い自然の豊かなところです。マカレスター大学のあるセントポールと,ミネアポリスという二つの有名な都市があります。
ミネソタの一番の特徴といえば,寒くて長い冬です。-20度を下回ることもあり,寒いというより痛く感じるのですが,体は自然に慣れるので大丈夫です。
(写真上:セントポール,写真下:とにかく寒いです。)
1.2.マカレスター大学(http://www.macalester.edu/)について
マカレスター大学は学生数約1,800人のリベラル・アーツ・カレッジです。元国連事務総長のコフィー・アナンの母校として知られています。
(写真:母校を訪れたコフィー・アナンと私。右はローゼンバーグ学長。)
2.業務内容
2.1.ラボインストラクター
ラボインストラクターとは,その名の通り,ラボ(laboratory)のクラスを担当する教師のことです。マカレスター大学には日本語,中国語,ロシア語,フランス語,ドイツ語,スペイン語の授業があり,学生はこれらの言語を受講する際,週3コマ(1コマ=1時間)のメインのクラスと週1コマのラボを取らなくてはいけません。メインのクラスは教科書を使って文型を導入・練習するクラスで,ラボではより少人数でその文型を使った会話練習をします。日本語のラボではその他に新しい単語や漢字の導入・練習,小テストも行いました。
私はラボを週8コマ担当しました。1レベル(初級前半)から4レベル(上級)までのうち,1レベルが3コマ,2レベルが3コマ,3レベルが2コマです。週8コマというと大変な感じがしますが,同じ内容をほかのクラスでも教えるので,準備は3コマ分でよく,比較的時間に余裕を持って準備することができました。
(写真:他の言語のラボインストラクターたちと。)
2.2.ランゲージハウス
日本語の家はジャパンハウス,スペイン語の家はスパニッシュハウスというように,言語ごとに独立した家が与えられています。ラボインストラクターたちはそれぞれのランゲージハウスに,その言語を専攻している学生たちと一緒に住みます。ランゲージハウスの中では,基本的に英語を話すことが禁止ですので,学生たちはアメリカにいながら,それぞれの言語の文化圏の生活を体験することができます。例えばジャパンハウスでは,玄関で靴を脱がなければなりません。学生たちは,その言語を学ぶためだけでなく,留学前にその国の生活様式に慣れておいたり,留学後に逆カルチャーショックにならないようにという目的で,ランゲージハウスに住みます。私はジャパンハウスでのべ6名の学生たちと一緒に住みました。週に一度コモンミールといって,食事当番を決め,様々な日本料理を作って食べました。またオープンハウスやドラマナイトといったイベントを行い,日本に興味のある学生をジャパンハウスに招いたりもしました。
(写真:ジャパンハウス。大きな一軒家です。)
2.3.その他
職場の環境は非常によかったです。オフィスには常に秘書がおり,仕事のことだけでなく,生活面でも大変お世話になりました。また日本人留学生や日本語の上手な学生が,日本語TAとしてアルバイトをしているので,簡単な仕事であれば任せることができます。
また,毎月デパートメントミーティングと呼ばれる学部の教員会議が開かれており,私も参加させていただきました。日本とは違う大学の仕組みを知ることができ,勉強になりました。
それから,大学の教職員は一学期に授業を一つ受講することができます。私はスペイン語とサルサダンスを受講しました。コミュニカティブ・アプローチでゼロからスペイン語を学ぶのは非常に興味深く,また学習者としての気持ちを知るよい機会になったと思います。サルサダンスは他のラボインストラクターたちと一緒に受講し,楽しい思い出ができました。
3.休日の過ごし方について
休日は仕事から離れ,ゆっくりと過ごすことができました。冬はスキーやクロスカントリー,アイスチュービング(ice tubing:そりすべりのタイヤバージョン),夏はテニスやバーベキュー,キャンプなどを楽しみました。ミネソタにはアメリカ最大級のショッピングモールであるモール・オブ・アメリカがありますし,MLBやNBAを見に行くこともできます。また大学内にある新しいジムで汗を流したり,近くのミシシッピー川へ散歩に行ったりもしました。
(写真上:ミネソタならではの雪遊び「アイスチュービング」,写真中:2009年MLBア・リーグMVPのミネソタツインズ7番ジョー・マウアー選手,写真下:2009年9月に完成したばかりの大きなジム“Leonard Center”)
4.待遇コミュニケーション教育の実践
マカレスター大学の学生たちは,日本にいる学習者と違い,日本語や日本文化についてのインプットの量が極端に少なく,教科書にある情報に頼りがちです。そこで,待遇コミュニケーション理論における「5つの柱」である,「人間関係」「場」「意識(きもち)」「内容(なかみ)」「形式(かたち)」)の連動を常に念頭に置き,「形式(かたち)」に偏った教育にならないよう,工夫しました。
最も印象的だった授業は,3レベル(中級)での敬語の授業です。敬語に対する意識を聞いたところ,10人中9人が嫌いだと答えました。嫌いな理由を聞くと,「不平等だから」「王様と召使いみたいだから」と答えました。敬語に対する嫌悪感が,間違った認識から生まれているという事実を目の当たりにし,敬語に対する意識に焦点を当て,授業を行うことにしました。
そこで用いたのが,ある先輩が以前授業で使われたという,ある日本のドラマです。そのドラマでは,ある貧乏育ちの主人公の女性が,お金持ちの男性に高級レストランに連れて行かれ,そこでその男性の友人であるセレブな女性に偶然出会い,一緒に食事をし,恥をかくという場面が出てきます。その女性は主人公に対し,非常に丁寧な敬語を使います。そこで使われていた敬語を聞き取らせ,確認した後,その女性はどうして目上でもない主人公に敬語を使ったのか,敬語を使った側・使われた側はどんな気持ちだったか,グループで話し合ってもらいました。敬語は上下関係を表すだけではなく,使う人の教養や品格を表すという,新たな側面に気がついたようでした。「あの主人公のように恥ずかしい思いはしたくない」という声も出ました。敬語を前向きに学ばせる姿勢を作るためにも,形式に偏らない,意識の面からの教育が必要であると痛感しました。そして,気づきのための刺激を提供する重要性を改めて感じました。
5.ミネソタで気づいたこと
ミネソタに行って気づいたのは,日本にいた時に,自分がどれだけ日本語教育の環境に恵まれていたかということです。ミネソタでは教科書,教材,文献などの量が限られており,簡単に新しいものを手に入れることはできません。私は日本から『ストーリーで覚える漢字300』(ボイクマン総子,渡辺陽子,倉持和菜,2007.くろしお出版)という教材を持って行ったのですが,先生方からも,学生たちからも,「こんなものがあるのか!」と非常に好評でした。
また,ミネソタでは日本語教育関係の学会や研究会に参加することもできず,日々仲間と議論し,情報交換するということもできません。マカレスター大学で日本語の授業を担当していた教員たちは,日本語教育が専門ではありません。自分の専門の講義をする傍ら,日本語授業を担当する教員もいるため,全員が日本語教育に時間と労力を100%費やすことはできないという現状があります。日本語教育界では「自己研修型」教師の重要性が叫ばれており,私も日本語教師は常に自分の日本語教育を内省し,成長していかなければならないと,以前は思っていました。しかし,それができるのは限られた人間であり,日本語教育に専念できない人たちの負担を減らすための研究や教材開発も必要なのだと気づきました。修士課程の頃は,研究と現場とのつながりを常に考えさせられ,私も,現場に始まり現場に還元されるような研究を目指していました。しかし,その時に自分の頭の中にあった現場という概念が,いかに小さく限定されたものだったか,思い知らされました。また,いくら日本語教育の研究者たちが研究成果を発表したとしても,それがすべての現場に届いているわけではないのだということも実感しました。日本語教育の研究者たちだけの中で共有されていても,意味がありません。深く研究するだけではなく,より幅広く様々な人に理解されるよう,発信していく必要もあると思いました。
6.最後に
マカレスター大学では,本当に充実した日々を過ごすことができました。私の教えた71人の学生たち,お世話になった教職員の方々,友人たちとの思い出は一生忘れないでしょう。今回新しい教育現場を体験することで,刺激をたくさん受け,教師としても研究者としても,新たなことに気づき,成長することができました。世界中を飛び回れるのは日本語教師の特権ですので,これからも様々な国で経験を積んでいきたいと思います。そして,それをただの自己満足で終わらせず,研究成果を精力的に発信していき,日本語教育界に貢献していきたいと思います。
(写真:1レベルのラボの学生たちと。)