宮崎里司のオックスフォード通信 第2回

「BATJワークショップ・セミナーに参加して」

2005年6月18日,国際交流基金ロンドン日本語センターで行われた,BATJ(The British Association for Teaching Japanese as a Foreign Language)ワークショップ & セミナー(国際交流基金ロンドン日本語センターとの共催)で,「日本語教育と日本語学習:外国人力士の研究から見えてくるもの」というテーマの下,セミナーを行った。

森本一樹さん(ダーラム大学)とソレンセン和子さん(ロンドン大学Royal Holloway)きっかけは,昨年の8月に,昭和女子大学で行われた「2004年日本語教育国際研究大会」で,偶然お会いしたロンドン大学Royal Hollowayのソレンセン和子さんから,この日のワークショップの講師を依頼されたことに始まるが,1年経って,ようやく約束が果たせたという思いだ。セミナーでは,新しい日本語教育観に立ち,オーストラリアの日本語教育を例に,これまでの座標軸を見直す作業を進め,マルチメディア型遠隔教育を利用した,現職者研修,教師養成用ビデオ・オンデマンド教材なども紹介した。

こうした仕事を通して,日本語教育関係者との新たなネットワークができるのも楽しみの一つである。この日も,前述のソレンセン和子さんのほかに,現BATJ会長の森本一樹さん(ダーラム大学),シェフィールド大の永井三幸さん,SOASの田中和美さんやBarbara Pizziconiさんともお会いし,懇親会では,イギリスの日本語教育事情や問題について,それぞれの視点で情報を提供していただいた。イギリスの大学も,オーストラリア同様,さまざまな意味で,「日本研究」と共存していかなければならないという,構造的な問題が根強いことも実感した。

視点の変化

この1年,多文化,他民族・人種,多言語社会の中で,マイノリティというカテゴリーで参加してきたが,80年代後半から90年代後半にかけて,メルボルンで生活していた時と比べ,どうやら視点が変化しはじめたことが実感できる。

接触場面でのインターアクション問題や言語政策の問題を解決するためには,問題を抱える学習者側への教育や,言語政策担当者による調整に頼るだけではなく,その社会の構成員も,問題の実態を共有するよう努力しなければならない,ということである。

言語習得の立場から考察すると,自らのことばで自己実現し足場を固めても,学習者の第二言語習得の習得状況いかんでうまくインターアクションできなければ,結局孤立化してしまう危険性がある。社会を構築する一方の参加者である母語話者に課せられる調整行動とは何であろうか。こうした場合,言語管理理論はどのように寄与できるか,現在答えを模索中である。

Cambridge大学 King's College Chapel視点の変化は,ここオックスフォードに来てさらに強まったように感じる。この地区は,アカデミックな領域が,生活全般に広がっており,過去何百年にも渡って,外国からの研究者,留学生などを受け入れることによって,成熟した多文化,多民族,多言語社会を構築してきた。管理人は,6月初めから数ヶ月滞在することにあたり,オーストラリア英語の規範も十分に習得しておらず,はっきりとした地域のラベル化ができない英語を話す当方は,不安感を抱いていた。だが,大学関係者や地元の人々とのインターアクション場面で,大きな問題はほとんど起きなかった。所用で,シェフィールドやケンブリッジに出向いたときにも,同じような印象を受けた。こうした経験から,母語話者側が築き上げてきたインターアクション能力の領域の広さが,社会的マイノリティである外国人として暮らす快適さ,異文化社会を通した世界観の拡大,人間的な成長,さらには,内的抑圧(internal repression)や社会的弱者(the unfortunate)意識からの解放などと連関しているのではないかと考えはじめた。

アメリカ,オーストラリア,イギリスといった英語圏でのこれまでの生活を通し,外国人問題の原因は,多文化共生社会における,社会の成熟さ(growth)や,違いを受け入れる寛容さ(tolerance)にも由来すると実感しつつある。しかしながら,社会が醸成する環境整備として,必ずしも移民国家を目指すことが必須条件ではない。こうした移民国家は,同時に多言語社会と言われて久しいが,人々が目指す目標意識と,実際の行動または社会価値とは,必ずしも一致せず,むしろ英語によるモノリンガル社会を指向する傾向が強くなりつつあることも事実である。Global EnglishとMultilingualismは,相反する概念で,時には相容れない問題かもしれない。さらに,一部に,テロを「多文化社会の失敗」と位置づけ,移民流入で「かつての白人国家は多文化のスラムになってしまった」と嘆く者が増えており,現在大きな問題に直面している。

日本は,多言語の接触がなくても,日本なりの独自の変容を遂げればよいことであり,むしろ,構成員一人一人の社会への向き合い方ではないかと考える。こうした状況下での外国語教育,とりわけ日本語教育の役割は何か?我々は,重い課題と向き合っている。