トルコ便り「M9.0を超える力――ことば」

工藤育子

8.3月20日,成田からイスタンブルへ

2011年4月20日

1月にチケットを手配した時点では,春休みの2週間で,初めての「トルコ旅行」をしようと考えていました。2年間,仕事で滞在していたときには,旅行など一度もしていなかったからです。

けれども,地震の後はすっかり,トルコ訪問の目的が変わりました。楽しみ,休むための旅行などと考える余裕は少しも残っていませんでした。

M9.0が起きた後の数日は特に,国難に際し,「わたしは何をすべきか,わたしになら何ができるのか」ということを考え続けました。一方で,東京でも揺れの不安が続く上に,甚大な被害を受けた地域の様子が報道番組や次々と更新されるオンラインの情報で明らかになるにつれ,あまりの悲惨さに,感情の一部が欠けたようにさえ思われました。みな,希望の見えない闇の中で,しかし,懸命に生きることと闘っていたのではないかと思います。

ペットボトルにお湯を入れ,懐に抱え,暖をとることにしました。混乱を避けるため,不要の外出を控えました。水や米などを買い溜めることもしませんでした。わずかですが,義援金も送りました。

しかし,これらはわたしにとって,人として当然すべきことであって,「わたしは何をすべきか,わたしになら何ができるのか」という問いに応えるものではありません。

医療や救助にかかわる専門家は被災地で即座に機能し始めました。ほかにもそれぞれの専門分野で役割を果たしていたと思います。

しかし,わたしはどうでしょう。日本語教育を専門とするわたしは,被災地の支援と日本の復興に向けて,どのように機能できるのでしょう。何もできないのでしょうか。わたしの専門である,日本語教育は無力でしょうか。社会が大きな問題を抱えているこの時に,何の貢献もできないのでしょうか。

もしもできないのなら,日本語教育に将来はないと思いました。しかし,そんなはずはない,と思いました。今こそ,この専門にこそできることがあるはずだと信じ,問い続けました。

トルコ訪問の目的は変わりました。しかし,その時点でわかっていたのは,楽しむだけの旅行ではないということくらいです。今回の旅行をわたしの中でどのように位置づければよいのか,具体的に「わたしは何をすべきか,わたしになら何がができるのか」という問いへの答えは,搭乗を待つ間もまだ明確ではありませんでした。


「だいじょうぶよ,だいじょうぶ。」

はっきりした,大きな声で,先生は言い続けました。

3月11日,M9.0の揺れを,早稲田大学22号館8階で経験しました。誰もが真っ青になり,しゃがんでも耐えられないほどの大きな揺れに驚き,泣き叫んでいる人もいました。

冷静を保たなければという意識とは反対に,腰がぬけたようになり,心臓の高鳴りと,体のふるえばかりが気になります。これで最期か。覚悟らしいことまでが巡りました。

「だいじょうぶよ,だいじょうぶ。」

幸いにも,わたしはその声を聞くことができました。

- だいじょうぶ?

- だいじょうぶ。

- ああ,そうか,だいじょうぶなんだ。

そのことばの強さに,自分に自分が返ってきたように感じました。先生も同じく大変な状況にいます。同じような恐怖の中にいたはずです。しかし,それを超えて,そのことばを言い続けていることに気づいたのです。

- 強い。

- 大きなエネルギー。

- 勝っている。

生死がよぎるような状況で,それを打ち破るほどの大きなエネルギーに満ちた「ことば」によって,わたしは救われたと思っています。わたしは自分の状況を見ることができ,自分がわかり,ざわめきに囚われていた自分を冷静に戻すことができました。

わたしは日本語という「ことば」を専門とし,日本語教育という人と人が世界規模でつながる「ことばの教育」を専門としています。この専門にこそ「ことば」の力によって,M9.0を超えるエネルギーが生み出され得るのではないかと確信しました。

金銭や物資の物理的な支援,医療や介助などの人的な支援に加え,最短で復興という目標を達成するために,社会のすべてを支える「ことば」による励ましや,その背景にある暖かい希望的メッセージや思いを共有することが重要なのではないかと考えるに至りました。

わたしに「ことば」の強さを,危機的状況にあっても,実践の中で教えてくれたのは小林ミナ先生です。春休み期間でしたが,先生もちょうど8階の研究室にいらっしゃいました。わたしにとっては,そのときの先生の「ことば」は実際にM9.0を超えていたことになります。その実体験がきっかけで訪土の目的がどんどん明らかになっていき,今回のトルコでの活動と報告につながりました。

わたしが見たトルコから日本への支援活動を,わたしの「ことば」にして日本に伝えたいと思いました。行く先々で勇気を与えてもらいました。けれども,それを現場に居合わせることができた日本語教師の特権のようにして,わたしひとりに留めておくことは適切ではありません。なぜなら,トルコからの声は日本全体に向けて発信されているものだからです。その上,既にわたしひとりでは持ち運べないほどの大きな愛の塊になっていたのです。

その「ことば」を伝えようとしたとき,「ことば」とは何かということも同時に問うことになりました。そうでないと何を伝えればよいかわからなくなったからです。

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