上原龍彦

連載『トルクメン通信』

当時の研究紹介文

2015年9月よりトルクメニスタンという国にある大学で日本語を教えています。

数年前まで名前しか知らなかった国でまさか自分が日本語を教えることになるなんて考えてもいませんでした。赴任時期が半年延期されるなど,赴任前にいろいろすったもんだがあり,「本当に行けるのか?」なんて考えたこともありますが,それもトルクメニスタンの「ご愛嬌」。赴任後もこの「ご愛嬌」に振り回されそうな予感がしますが,これも異文化体験だと思って前向きに頑張りたいと思います。

トルクメニスタンで日本語教育に携わりながら,次のようなことを考えたいと思っています。

①「日本語教室」とはどんな場所なのか?

⇒「日本語教室」と聞くと,「『これから』『どこかで』日本語を使えるようになるために日本語を勉強する場」というイメージがあるかもしれません。確かにそういう側面もあるのだと思いますが,そのような前提で日本語教育を行っていていいのかなーなんて考えることもあります。特に,トルクメニスタンでは,将来,日本語教室以外で,日本語を使う機会はほぼありません。なので「『これから』『どこかで』日本語を使えるようになるため」という目的は成立しにくい状況にあります。

では,「日本語教室」では何をしたらいいのでしょうか。学習者や実践者(である教師)にとって「日本語教室」はどんな「場」であるべきなのでしょうか。それらについて考えることは,つまり「日本語教育」について考えることでもあり,それは新たな日本語教育の可能性を拓いていくことにつながるのではないかと考えています。

②「ことばの役割」とは何なのか,「ことばを学ぶ」とはどのような営みなのか?

⇒「日本語ができなければ仕事ができない,生活ができない,学校の教科学習に参加できない」ということをよく耳にしてきました。確かに日本語ができることで行動範囲も広がります。ですが日本語ができないと本当に何も「できない」のでしょうか。そんなことはないと思います。私はトルクメン語が一切できませんが,こちらで生活できています。言葉ができなくてもジェスチャーなどの非言語要素を駆使すればなんとかなったという体験談も聞きます。では「ことば」は必要ないのかといったらそんなことはないとも思います。

私たちが日本語を含めた「ことば」でやり取りをするときに,様々なモノやコトに頼りながら理解したり表現したりしています。つまり,単純に「ことば」だけでやりとりをしているというわけではなく,ことばの周囲にある様々なモノやコトに支えられながらやり取りをしていると私は考えています。だから「ことばがわからなくてもわかった」感覚を得たり,逆に「ことばがわかってもわからない」経験をするのだと思います。このように,私たちのコミュニケ―ションを支える一つのリソースとして「ことば」という存在を考えたとき,その「ことば」の役割とは何なのでしょうか。そしてその「ことば」を「学ぶ」とはどんなことなのでしょうか。

少なくとも,この「ことばの役割」や「ことば(日本語)を学ぶ」ことを考えるときには,「どのくらい日本語を覚えたか/わかるようになったのか/できるのか」という結果だけを見ていたのでは不十分で,その結果に至るまでの過程にあった文脈やリソース,さらには学習者の「日本語学習」に対する認識や意味づけ,アイデンティティ形成などあらゆることを含めて考えていく必要があります。そしてこの問いもまた,これまでの「日本語教育/日本語習得」を捉え直し,新たな日本語教育について考えることにつながると思っています。

③「連携する/協働する」とはどういうことなのか?何が必要なのか?

⇒②にも関連しますが,「日本語を学ぶ」営みには様々な人も関わっています。日本語教師はその「人」のうちの一人にすぎませんし,日本語教師が「日本語を学ぶ」過程のすべてに関わることはできません。そのため,学習者を取り巻く人の連携や協働が必要となります。ですが,考え方の違う人と連携したり協働したりすることはとても難しいことだと思います。同じ場で働く日本語教師の間でも難しいです。では「連携/協働」するためには何が必要となるのでしょうか。そもそも「連携/協働」するとはどんなことなのでしょうか。これは,①②で述べた「新たな日本語教育」を実践していく上で必要になる視点になると考えています。

①②③はトルクメニスタンに行ったからといってすぐに答えが出るような問いではありません。たぶん一生をかけて追求していく問いなんだろうなー思います。自分の目の前で行われている営みから目をそむけずに,焦らず着実に一歩一歩「自分の実践」から考えていきたいと思います。