地域日本語教育研究を履修して(2009年度春学期履修)

塩島弥生(修士17期修了生)

心の機微に触れる。心を揺さぶられる。

そんな瞬間を,「地域日本語教育研究」という授業の中で何度も感じました。そして,どうして私の心が揺さぶられるのか,どうして心の機微に触れるのかを考えた時,池上先生が求めているものが,その瞬間にその教室の中で実現されているからだ,と思いました。さらに,どうして池上先生が求めているものに,私の心のスイッチが触れるのかと考えた瞬間,まさしくそれが,私が私自身の日本語の教室の中で求めていたことと同じだったからだ,と気が付いたのです。

1997年に日本語教師を始めて以来,経験や失敗を重ねながら日本語を「教えて」きました。しかし私の中ではずっと,教室という場で「教える」というよりも,日本語を通して目の前にいる人の何かを知ろうとしているような気がしていました。それはもちろん,無意識に,です。無意識の中でそれを探そうとしながらも,授業の中で自分が何を求めていたのか,何を実現しようとしているのか,意識的に考えないまま,私は日研の門を叩いたのでした。もし,私が意識的にそれを探そうとしていたのなら,もっと早く「地域日本語教育」に出会うことができていたでしょう。

「地域日本語教育って,私にはあまり関係なさそう」と思う人も多いと思います。「プロとして生計を立てたいから,地域の教室には行けない」と考えている人もいると思います。

しかし,「心の機微に触れる」授業を,教室の中で実現していくのは,決して「学校の教室」や「地域の教室」という枠で区切られ,区別されるものではないはずです。教師が授業の中で求めたいものがあるのだとすれば,それは教室の場所や形態や対象者というもので左右されるものではなく,どこであっても追い求められ,実現されていくものなのではないでしょうか。

「地域日本語教育」は「地域日本語教育」という領域の枠内にだけはめ込まれているものではなく,全ての「日本語教育」に関る人々の心の中にあるものであると,私は考えます。

日本語教育学という大きな研究分野の中には,様々な領域が含まれています。対象が違えば領域が変わり,教材が違い,研究内容も変わります。しかし,「人」という対象に「日本語を使うこと」をテーマに語っていく,ということ,それ自体は,変わらぬものとして日本語教育の根底にあることは忘れてはいけないのではないでしょうか。そしてその根底に一番い近い形で,「人が日本語を使って生きる」ことを研究しているのが,地域日本語教育研究であるといえると思います。

「人がこれまでどのように生きてきて,これからどう生きていくのか」「生きるって何なのか」「それらと日本語がどのように関っているのか」。それらについて考えたいと思うのならば,考える過程で心を揺さぶられるヒントが,「地域日本語教育研究」には,たくさん詰まっています。心を揺さぶられながら,日本語教育と人との繋がりについて感じてみてください。ここで語り合うことで,日本語教師のみならず,人として,必ず新しい何かが見えてくることは間違いありません。